大阪府泉南岬町で生まれたリライブのストーリー - NPO法人リライブ 大阪府泉南郡岬町で様々な町の課題をビジネスモデルで解決する目的の非営利活動法人「NPO法人Re-Live/NPOリライブ)」
リライブが結成される前からのまちづくりの様子。リライブ結成前から今に至るまでの物語
大阪府泉南郡岬町で生まれたリライブのストーリー
大阪府泉南郡岬町の課題を解決させることを目的とするNPO法人Re-Live(リライブ)のマーク

大阪府泉南郡岬町で誕生!リライブのストーリー

■ある田舎町に住む男の独立

14年間お世話になってきた会社。
文系大学を出た人間が想像もしなかった今の職種は、大阪市内にある歴史あるブランドの商品開発・設計・プロモーション。
新たにモノやコトを創造し世に送り出す仕事。職種としては申し分ない。
そのはずなのに、もうずいぶん前から会社のシステムと空気に耐えきれない自分がいる。
リライブ理事長となる松尾である。

会社への反骨精神と現在の使い捨て社会への疑問から、修理を活性化させてゴミを減らすためのWEBアプリケーション「Repair7」を独自に開発し、 株式会社オルタナティブを設立。しかし生活を考えると今の会社はまだやめられない。
(軌道に乗るまで我慢して世話になるか)しかしまわりがそうはさせてはくれない。
早くも半年後に、自分の人生のターニングポイントを迎えることとなる。

お盆前の前日。気づけば社長室。「大丈夫か?食べていけんのか?」自分が想像していた社長の言葉ではなく親心に満ちていた。
一瞬心が揺らいだが、前日までの家族との相談を思い出し決断する。
「自分の会社でやっていきます」

実は会社を辞める少し前、中学生の時以来顔を合わせた事がなかった、地元で車屋を経営しながら町議会議員である、 リライブ顧問となる、同級生の竹原伸晃(通称ノブ)と再会する。
ノブに独立した事を伝えると「それなら商工会青年部へ入りや!自分みたいに修理を請け負う業種も多いから、Repair7にみな登録してくれるで!」
言われるがまま入会。そして全国の商工会青年部を繋いでいる青年部連合会が主催する名刺交換会にも参加。
そこである程度やっていける確かな感触を掴んだがゆえに出した、世話になった会社を辞めるという決断をしたのであった。

しかし蒸し暑い日が続くお盆過ぎの平日。
一人で地元や隣町周辺を営業に回るが「WEB」と聞いただけで門前払いが続く。世の中そんなに甘くはない。
商工会に関係ない地元周辺の商店は、いくら登録や使用が無料と言えど飛び込み営業への強い警戒や地元商売の特性から、 Repair7をなかなか受け入れてもらえない。

「どうしよう。。。」
焦りが募る中での青年部会議への参加。肩を落としている自分を心配してか、Repair7の理念を絶賛してくれた一人の商工会職員が声をかけてくれた。
「それなら明日から僕についておいで!」
松尾が今でも特段に感謝の意を表す坂本氏である。
地元商工会員の商店や企業へ株式会社オルタナティブと松尾、そしてRepair7を片っ端から紹介、また商工会が主催するセミナーや交流会など、 人の集まる会へ積極的に松尾を引っ張り出し、とにかく人と会わせた。そのおかげで登録はもちろん人脈が確実に増えた結果、WEBやデザイン制作他、 生活していくための仕事も受注するようになったのである。
そこで松尾は「人との出会い」をつくることの難しさや「交流すること」の大切さを強く思い知ったのである。

■町に対する危機感を持った仲間たちの出会い

こうして地元で腰をおろして仕事をするようになり、ノブからも地元の重鎮やキーマンなどを紹介してもらいながら松尾は地元の人脈に溶け込むようになる。 そうなるとノブと松尾は自然と地元の話題に。
地元への関わりが薄かった松尾にとっては話が新鮮で、特に今まで意識していなかった町の課題、例えば休耕地や空き家の急増などをノブが話すたびに、 興味が異常に湧いた。その理由は3つ。

一つは、自分の住む町をこのまま野放しにしておくと「近いうちに町自体がなくなってしまう」という危機感。
二つ目は、町のすばらしい資源を有効に活用されていないという「もったいない」感情。
三つ目には、松尾が前職で10年以上行ってきた製品開発で身に付いた感覚「課題はビジネスチャンス」になるというワクワク感。

感覚的に町の課題を解決させるための絵を頭で描いていた。
「休耕地が増えているのであれば、農業で使いたいと思っている全国の人に使ってもらえる仕組みをつくったらいいんとちゃうかな?」
癖で頭の中である程度のアイデアが浮かぶとすぐ紙へアウトプット。それが現在の「リモコン農園」になる企画である。

気づけばノブをはじめ、商工会青年部の役員会で提案していた。
ノブとしても議員である以上、町の課題を解決していくことが仕事なのですぐに賛同。
ノブは地元の商売人と議員という2つの顔をもつ広い人脈の中から、 同じ熱い想いを持ってまちづくりに取り組もうと考えている一人の地元住民を、ある夜に連れてきた。
聞くと大阪府岬町民でありながら、大阪市住吉区で障がい福祉の法人を立ち上げ運営している経営者であり、 また別会社にて全国を経営コンサルタントとして飛び回っているという。
それが、リライブ副理事長となる北野喬士である。
ノブは町づくりの化学反応をさせるために連れてきたのだ。

そもそも今まで企業誘致などに頼り、特産品や魅力あるコンテンツの開発など、 いままで自分たち自身の手でまちを変えようとする姿勢を示さなかった行政機関や住民。
その結果、働く場所がなく若い人材が町外へ流出し高齢化となり、先祖代々引き継がれてきた家や田んぼが引き継がれなくなり、 休耕地や空き家が急増している。
3人は原点に戻り「魅力ある仕事をつくり雇用を創出する必要がある」ことにたどり着く。 しかし目に余るたくさんの休耕地などの課題もなんとかしていかなければならない。
育った畑は違うもののそれぞれの観点から解決策を話し合った。二人のプランが見事にかみ合う。

「まちの課題をビジネスモデルにて解決していく」こと。

そして農業×障害福祉×ITの、全国的にも例のない先進的な新しいビジネスモデル案ができる。
これがリライブのミッションとなり事業内容の始まりとなる。
「いっしょに大阪府岬町を変えていこう!」

■任意団体「リライブ」結成

しかし松尾自身、ワクワクする新しいまちづくり事業を始めることを決意した一方で、実は大半別の事で心中かなり落ち込み追い込まれていた。
数日前に知らされた母の末期がん宣告だった。
今まで自分より家族の事を最優先に考えて一生懸命に松尾を不自由なく育ててくれた最愛の母。
父が事業で失敗し家族がどんなに苦しい状況であろうと文句一つ言わず矢面に立って必死で家族を守ってくれたその人柄ゆえ地域の人望も厚い、 松尾が一番尊敬する母。
宣告から松尾は眠れない日々が続いていた。母をなんとか救いたい。
医者が何と言おうとあらゆる手段を使い治療に関するあらゆる事を調べに調べ、自宅でもできる治療法なども含め、すでに動いていた。

1日の大半を看病に費やす生活。一方で独立して間なしの松尾にとって安定した収入があるはずもなく本業の仕事も増していかなければ生活できない状況。
経済的にもいつまで続けられるかわからない中、「家族や自分自身のことで精一杯のなか、まちづくり事業もやっていけるだろうか。。。」
そんな思いの中での決断だった。

松尾と北野とノブはお互い時間を調整しながら、地元で活動しているジルバー事業団やNPO法人、社会福祉協議会や農業委員会、商工会などの各種団体、 そして大阪府岬町とコンタクトをとり、自分たちのまちづくりプランと法人設立の意思があること、そしてみんなでまちづくりをしていく必要性を説明にまわりはじめる。
と同時に仲間集めにも動き始め、松尾がノブから紹介を受けていた、大阪府岬町出身ながら四国で農業をして修行を積んできた渕原照己(農業アドバイザー)をはじめ、数名を交えた。
ここで任意団体「リライブ」が結成される。

様々な団体と会い、話をする中で、町から松尾へ一本の電話が入る。
「田んぼを管理してもらえる人を捜している」と。
休耕地管理の第一号である。
草刈を刈る。リライブで初となる仕事。けれど代金はもらわない。 無料で管理させてもらう代わりに、貸し農園事業で使わせてもらうということを掲げているからだ。
草刈りや耕耘をしていると「何してんの?」と地元の人々が次々と声をかけてきた。その度に「自分のところも管理してほしい」と続々と依頼が!

胸が躍った!
自分たちが思っていた以上に休耕地の管理が出来ずに困っている人がたくさんいることがわかったことと地元に受け入れてもらえた気がしたからだ。
管理する土地が増えた事で、一刻も早く事業をスタートさせなければ、草刈りの毎日を送らなければならなくなる。
貸し農園を開設するには農業委員会の承認と、大阪府が100%出資の農業中間管理機構である大阪府みどり公社と大阪府岬町とリライブとで3者協定を結ぶ必要があり、 その前に法人設立など、法人として事業を開始するためにはいろいろと時間と労力がかかる中、 その間にもまずは野菜やハーブを栽培して少しでも活動費を捻出しようということに。
しかしこのことがリライブ内の課題を浮き彫りにし、解散の危機を招くとはメンバーの誰もが予想していなかった。。。

■母の死とNPO法人リライブ解散の危機

松尾が北野と出会ってちょうど1年経った2月末。一生懸命の看病が功を奏し一時は急速に回復し横ばいを保っていたと思われていた母の容態が、 医者から突き落とされるような一言で急変する。

「もう使える薬はありません」
余命3ヶ月の末期がん宣告から1年数ヶ月。
そこから全国の病院を駆け回り、なんとか治療を受け入れてもらえる病院を探した。そして一筋の望みをかけた最後の戦いを母といっしょに全力で行った。 最後まで諦めない母の性格を知っていた松尾も最後まで何があっても諦めなかった。

その間にも4月30日に大阪府岬町からNPO法人の認証を受け、翌5月12日に法人の登記を完了。
貸し農園開設に向けての農業委員会との折衝など慌ただしく時が過ぎる。
しかし6月22日に設立集会を控えた6月11日、松尾が尊敬する最愛の母が永眠する。

永眠する直前まで母は生きる希望を失ってはいなかった。そして直前まで息子の仕事を心配していた。
母を救えなかった大きな悔しさは人生で一番の悲しみとなった。
リライブを立ち上げ、野菜などつくった事がない松尾が、できた野菜を母に食べてほしいと見せた時、母はリライブが進んでいることにとても嬉んだ。
天国の母へ進捗を報告していくためにも最後までリライブを諦めないことを心に誓った。

■NPO法人リライブ、本気の始動!

コアとなるメンバー全員が地元住民のリライブである以上、我々の住む町に深く突き刺して掲げたミッションは揺るぎない。
これからも多難が待ち受けているが、町が消滅するにはすでに時間の問題にまで来ている。
なら自分たちのため、そしてこれからの世代のために、その多難と向き合い続けていく。
自分たちの創造する町を自分たちの手でつくりあげ、次の世代に託すまで。

NPO法人リライブの公式フェイスブックページへ。活動状況や収穫体験イベント等の情報がご覧いただけます。

Copyright (C) 2016 NPO Re-Live All Rights Reserved.